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2013年11月

2013年11月24日 (日)

かぐや姫の物語

Imagescakzq5ap

レイトショーで「かぐや姫の物語」をみてきた。
高畑監督らしい、格調高く重層的なお話で、日本最古のおとぎ話がA級映画に変身した感じだ。

この作品の中で、かぐや姫は生身の生き生きした人間に描かれている。
竹から生まれて竹取に育てられ、「竹の子」というあだ名で呼ばれる田舎育ちのわんぱく女子だ。
山に定住せずジプシーのような生活をする最下層の子供達と仲良くなり、野山をかけまわる。
後に都に出て行くことになるものの、出自はかなり怪しくややもすればもののけの類、というわけだ。
だが卑しい身分の竹取の翁媼にとってみれば、まさに天からの授かり物。
この子を立派に育てて、都で高貴な身分の家に輿入れすることで、天からの授かり物を最大限活用しようとする。

都での暮らしはいわば嫁入り修行の退屈な日々。
裏庭に、小さい頃すごした野山を再現して自分の気持ちを誤魔化す日々。
やがて初潮を迎えた姫は、かぐや姫と名付けてもらい、3日3晩の盛大な宴会が催される。
その宴会のさなか、自分のことを偽物、もののけの類と話す人の話を聞いたかぐや姫は都を逃げ出し
着の身着のまま昔の野山に逃げかえる。
しかし育った家はすでに他人が住んでおり、居場所はないと悟る。
都に帰ってからは覚悟を決めたかのように花嫁修業に精を出すかぐや姫。
やがて5人の高貴な殿方から結婚を申し込まれる。
そこで5人は会ったこともないかぐや姫をそれぞれにこの世に存在しない伝説上の高貴な宝物にたとえて褒め称えるが、
かぐや姫はその存在しない宝をもってこいという難題を与える。
姫にしてみれば結婚する気がないので、殿方を追い払うための遊びのようなものであったが、
その難題実現のため、一人の殿方が死んだことを知ると一気に抑えていた感情が噴出する。

偽物の自分が偉そうに殿方を困らせて遊び、挙げ句の果てに一人死なせてしまった。
そこで姫は自分が地球に遣わされた経緯を思い出し、もうここには居たくないから迎えに来るよう思念を送ってしまう。
月から迎えが来る直前、媼のはからいで今一度自分が育った田舎に帰った姫は、幼い頃あこがれた捨丸に出会い
自分の気持ちを素直に打ち明けるが、捨丸もすでに子持ちで自分の人生を生きていた。
つかのまの楽しい思い出を作り、姫は都に帰る。
やがて約束の日が来て、姫は月からの迎えにつれられて帰還。月の羽衣を着ると地球での思い出はすべて忘れてしまった。
一筋の涙を残して。

 ・・・

この物語の根底に流れるのは、仏教で言うところの輪廻転生、現世は魂の修行の場、という考え方だと思う。
竹から生まれたかぐや姫であるが、人間が生を受けるのは、ある意味偶発性のたまものであり、
その結果現世に生まれ出てくるようなものだと考えれば、我々人間もみなかぐや姫なのである。
小さい頃の楽しく無邪気な思い出を一つ一つ捨てながら大人に成長し、人によっては故郷を捨てて都会に
出る人もいるだろう。
そこでいろいろな不条理に遭遇し、あきらめを繰り返し、気持ちを押し殺して生きる日々。
自分は何物か?ホンモノか偽物か?まるで現代に生きる人間の悩みそのものであるかのようだ。

かぐや姫は抑えていた感情を爆発させ、ついに月に帰る選択をするが、月から遣わされたのが、この世で魂を
修行するために生を受けたという意味であるなら、月への帰還は、まさに死を暗示するできごとである。
「生きるためにうまれてきたのに・・」というかぐや姫の一言がすべてを物語っている。
月へ帰ってしまうと修行した内容をすっかり忘れて魂の平穏を得るあたりの仏教観そのものだ。
月からの使者は揃いも揃って仏教装束に身を固めており、奏でる音楽もディズニーランドのエレクトリカルパレード風の極めて胡散臭い物だ。月はあの世の象徴ということであろう。

かぐや姫は自分で月へ帰る決心をしたあとで、その選択に後悔し、心から地球にとどまりたいと願う。
そう、田舎での楽しい日々だけでなく、都会での退屈で不条理な日々すらも、翁媼が自らによかれと思う気持ち、深い愛情のたまものであったことに気づき、いとおしいものであったことを悟るのだ。

現世にいきていくということは、いやなことも含め、人間はそれでも生きなければならないし、修行を全うしないといけないということか。
途中で投げだし、月に助けを呼んでしまっては(自殺的な行為をしては)あとで後悔するということか。

姫の犯した罪と罰とは何だろう?

前世のなんらかの罪(描かれていない)のため、再度魂の修行を行うため、かぐや姫は現世に遣わされた。これが罰である。
そしてその罰を修行という形で全うしないといけないのに姫は途中で投げ出してしまい、それを後悔する。
裏返すと魂の修行たる人生は嫌なことも含めそんなに悪いものじゃないよ、というのが、高畑監督の人生観であり、それを観客に見せているのだと思う。

そう。鈴木プロデューサーの「生きねば」は、この作品のコピーとしても生きるのである。

高畑監督は、日本最古のおとぎ話を見事に昇華させ、A級の映画作品に仕上げた。
少女の頃の「竹の子」はなんと生き生きとはつらつとしていることか。
すっかり血の通った生身の人間の物語として、竹取物語は時をかえて現代によみがえった。

 ・・・

この夏の「風立ちぬ」、秋の「かぐや姫の物語」。ジブリの二大巨匠はすばらしい物語を世に残してくれた。
どちらも賞などとれそうもないドメスティックなお話であるが、それでも我々日本人には響くところが多いと思う。
私はどちらか言うと「風立ちぬ」の方が好きであるし、泣けた。
かぐや姫の物語で泣けるにはまだまだ修行が足らないのかもしれない。

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